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1994年8月。1回目の渡英・・・


 マジカルミステリーツアーは続く。
 このあと、残る3に人のメンバーの家を訪問した。
 まずは1枚目。これは、ジョージの生家の前で犬と戯れるT氏。
 ジョージの家は壁が赤く塗られた12号室。リンゴの住んでいた所よりはやや小奇麗な感じがする。この犬はご近所のおばあさんが連れてきた犬で、女の子と男の子が(孫だろう)一緒に遊んでいた。私たちが12号室を撮ろうとカメラを構えると、「お座り!!」と何度も命令して座らせてくれた。なかなか楽しい瞬間であった。
 


 2枚目の写真はポールの家。
 最近ナショナルトラストの対象となり、歴史的建造物として保存されることになったらしいが、私たちが訪れた頃は一般市民が居住していた。まさかこんなに毎日のように多くの観光客に訪問されるとは…思ってただろうな。きっと家賃も高かろう。ジョージたちの家と比べると、庭も広いし、日当りも良いので、ちょっと余裕があったくらしぶりが伺える。
 


3枚目はジョンの、いや、正確にはジョンのおばのミミが住んでいた家である。
 この通りを「メンローブ・アベニュー」と呼ぶ。そう、あのジョンのアルバムはこの通りの名前から名前をつけたのだ。2階の一番左側の部屋がジョンが使っていた部屋だそうだ。この部屋で、デビュー前のジョンがノート片手に作詞や作曲をしていた姿を想像してしまう。


 この写真は、ジョンとポールが初めてであった教会、セント・ピーターズ教会である。
 1957年7月6日(土)、ここで行われた祭りの時に演奏していたジョン率いるバンド「クオリーメン」の演奏を友人に連れられてきたポールが見たのだ。そのときのジョンはビールを飲んで酔っ払い、分からない歌詞を勝手に作詞して歌っていたらしい。そんなジョンにポールもきっと惹かれただろう。当時ポールは15歳。ジョンは16歳と9ヶ月。たった1歳ちょっとの差ではあるが、ポールから見ればジョンはかなり大人に見えたにちがいない。

 2枚目の写真は、そう、世界一有名な孤児院、ストロベリーフィールドの入り口である。
 あの名曲「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」のヒントとなった場所であるが、見たところ特に何かがあるというふうには見えない。ただうっそうと茂った木々が見えるだけである。ジョンは幼い頃、この施設の中に忍び込んで、ブランコなどで遊んでいたらしい。その頃のイメージが大人になってあの名曲の中に再現されたということであろう。ちっともロマンティックな場所ではないと思うが、ジョンの中ではきっとそれが幼い頃の永遠の楽園、一人きりでぼんやりと空想にふけっていられた場所としてよみがえってきたのだろう。
 近年、この施設も取り壊しの憂き目を見たようであるが、歌の「ストロベリー・フィールド」はもともとこの世に存在する場所ではないのであるから、悲しむことでもあるまい。言い換えれば、ジョンはあの歌を作ることによって、私たちジョンを愛する一人ひとりの心の中にそれぞれの「ストロベリー・フィールド」を作り出すことに成功したのである。
※それにしても、今になってみるとこの私、Tシャツをしっかりとズボンの中に入れているのがご愛嬌である。いや、日本にいるときはもっとだらんと出していたのであるが、イギリスに行ったことで紳士になったということだろう…いや、もしかしたら、ただ寒かったので腹を冷やさないようにしていたのかも知れぬ…。

 マジカル〜ツアーが終わり、港に戻った後、我々一向はマシュー・ストリートにある新生キャバーンクラブに向かった。そこで、こんかいの演奏の手はずを整えてくれたレイ・ジョンソン氏に会うためである。
 キャバーン内部は、となりにあった本物のキャバーンの内部を再現したものであるが、なかなかいい雰囲気を出していた。ただし、日常的にはここはバンドのライブ会場としてではなく、ディスコとして営業しているとのことで、、この日もステージにはDJブースらしき機材が置かれたのみであった。
 レイ氏はドラマーで、自分のバンドである「ザ・ダークホース」(来たね、いきなり。この名前)で演奏しているのだ。明日の演奏は、このバンドに混ぜてもらってとりあえず3曲、競演することとなった。